やっぱり家族あっての俺って訳で。一人遠方におるけども家族の愛ってのはひしひしと伝わってくる訳で。
まず出発の当日。
弟は出発まで終始無言やったけど、弟の兄思いはすでに大阪に住んでる時から伝わってた訳で。
こんだけ仲のええ兄弟はそうそうおらんかと思う。休日はセッションしたりCD屋まわって音楽議論したり・・・。夜な夜な語り合うのもしばしば。
出発する時になって今更のように喋りだすような関係じゃないので一言二言でも全然自然やった。

ママンは号泣w
毎日のように体揉んでほぐしてた俺が行ってしまった今、母の体はバキボキになってるんじゃないかと俺が逆に心配になってくる。
今は元気でいてくれているが。たまには帰ってやろう。また泣くやろな。
何も言わずいきなり帰って花でも持ってたらそりゃもうどうなるんやろw

父。
23の7月まで「世界一憎むべき人間」だった父。
生まれてこのかた贅沢の類は一切させてもらえず(家庭の事情で当然だが子供にそんな理屈は通用せず)、口数が少ないどころか一日無言もしばしば、たまに口を開けば説教。俺が反抗期を迎えた以後今までの間に殴り合いをした事は数知れず。
でも親父は一切次の日にその問題を持ち出そうとはしなかった。俺よりも遙かに大人やな今思えば。それよりも俺と同じ立場になって殴り合いをしてくれた事に感謝すら今はしてる。
平日は仕事に忙殺。楽しみは帰って一杯。
休日は午前中釣りをして昼はTV。
家族に鬱陶しがられながらも不平不満を漏らさずひたすら高校卒業から勤続今年で43年間、無遅刻無欠勤。
親父が不満を爆発させるのは年に2回、母方の実家家族と飲んでる時だけ。
あの時は文句ばかり言う親父を蔑んだものだが、それまでの勤労ぶりを見るとそれも許してもよかったと今にして反省してる。
絵に描いたような「昭和初期の親父」。

今まで衝突しかしなかった父の出発最後の言葉
「がんばれよ」
その瞬間、「世界一憎むべき人間」が「世界一カッコエエ親父」に変わった。
23年生きてきて今まで、親父に優しい言葉などかけられた事がなかったから、それはもうとてつもない衝撃だった訳で。

最後に祖母。
亡くなってからも俺の前に現れてくれた人。
亡くなって三日後、足の悪い祖母がいつも座っていた椅子に祖母が座っていた。
座っていたかどうかはわからんが。
でも、笑ってた。
確かに。

しかし俺は幸せ者やね。

ネット友達の皆、
生まれた時から悪友を運命づけられていた菅原六丁目の「北斗三兄弟」・田○正○、加○○。
2歳からの付き合い、鳥○義○。

彼等彼女等のお陰で、今の俺が形成されている。
CHARIOTS23歳、まだまだ青いですがこれからも何卒。

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